黙示録15章5節
その後、わたしが見ていると、天にある、あかしの幕屋の聖所が開かれ、:6その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸にしめて、出てきた。
黙示録の預言は、必ずいつか成就する時が来ると約束されている。
それを信じる事が信仰人の道理であり、救いに至る道である。
ただ、信じれば救われると思いこむ信仰こそ哀れであり、愚かな考えである。
聖書と自身の姿を照らし合わせ、何が自分にとって必要なものなのか悟るべきである。
黙示録15章5節
その後、わたしが見ていると、天にある、あかしの幕屋の聖所が開かれ、:6その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸にしめて、出てきた。
黙示録の預言は、必ずいつか成就する時が来ると約束されている。
それを信じる事が信仰人の道理であり、救いに至る道である。
ただ、信じれば救われると思いこむ信仰こそ哀れであり、愚かな考えである。
聖書と自身の姿を照らし合わせ、何が自分にとって必要なものなのか悟るべきである。
信仰人ならば必ず持っているべきもの
それは、みことばである。信仰とは神様を信じ仰ぐことである。
それは神様自身を信じることに加え、神様のことばを信じ、神様との約束を信じることである。
つまり、クリスチャンであるならば当然のように聖書のみことばを知っていなければならない。
イエス様はこの福音を地の果てまで伝えるようにいわれたように、私たちも神様のみことばを伝えようとすることこそ当然信仰人としてするべき行動ではなかろうか?
みことばを伝えることは、伝道することであり、みことばである道を伝えることだ。
しかし、肝心なみことばの知識がなければ、伝えるべきみことばも伝えることが出来なくなってしまう。
みことばの価値こそ、人のたましいを生かすものであるので、自分もみことばで生かされたように誰かをみことばで生かすことこそ神様から受けた恩恵をお返しすることになるのだと信じている。
みことばは、人に伝えるだけのように見えるが、自分を生かすことでもある。
自分も生き、相手も生かし、神様のこどもになる。
これほど、すばらしく偉大なことは他にないだろう。