聖書でみる偽善者
(マタイ15:8~9)
『この民は口先でわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
彼らが私を礼拝しても、むなしい。
人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」
(新改訳聖書)
神様がご覧になった時の偽善者とは、神様の御言葉の真理も分からずに
神様の真理だと語り、人々に教えることである。
2000年前のエルサレムの聖職者たちの現状もそうであった。
これは、イザヤ書の御言葉の預言通りであり、当時の聖職者たちは
約束された救い主イエス様の存在を認めず、自分たちの義だけを人々に現し
神様の真理を人々に教えることをしなかった。
果たしてこの御言葉は、この時代だけに当てはまる御言葉だろうか。
今日の信仰人たちも、聖書の解釈も様々あっていいのではないか、
自分に合った解釈をみつければいいだとか、そういった言葉が
教会の中で当たり前のように考えられている。
しかし、聖書の御言葉は、真理であり様々な答えがあるものではないはずだ。
これは、御言葉の真の意味を知らないということの表れであり、
だれも真理を知らないということなのではないかと考える。
真理も分からずに、真理でもないのにあたかも真理かのように教えることこそ
神様がご覧になった時の偽善者であり、人は騙せても神様の目を騙すことはできないことを
私たちは知るべきことだと思う。