天の御国にはみなが入るのではなく、主の御心を行ったものが入る

 

わたしに向かって、主よ。主よ。というものがみな天の御国に入るのではありません。

天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。

その日には、大勢の者が、わたしにいうでしょう。

主よ。わたしは、あなたの名によって預言したし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。

わたしはあなたがたを全然、知らない。不法をなすものども。わたしから離れて行け。

「マタイの福音書7章21~23」

 

일흔번씩_일곱번_(1)

 

イエス様の名によって、預言をしたとしても、悪霊を追い出したとしても、奇跡を起こしたとしても、どんなに、神様を深く信じていようが、神様の御心から離れた信仰をしていては意味がない。

大切なのは、まずは、神様の御心を知ることから始めなければいけないのだ。

自分よがりな信仰をしてもいけないし、聖書の解釈を勝手に変えてもいけない。

その人が天国に行くにも、地獄に行くのも結局は、その信仰の行いによって決まる。

神様を恐れ、地獄を恐れる敬虔なクリスチャンならばこそ、聖書の前に低くなり、己の考えを捨て、神様に従順すべきである。

 

 

 

 

 

 

キリストにあずかる者

キリストにあずかる者

あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々を、互いに励まし合いなさい。
もし最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

ヘブル書 3:13-14

第2テモテ1章11~12節 信仰人としての苦しみは苦ではない

 

第2テモテ1章11~12節 信仰人としての苦しみは苦ではない

 

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%83%9c%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%86

わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になったそのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。
第2テモテ 1:11-12

 

神様の福音を伝えることで、苦しみをうけることもある。
しかし、その苦しみは信仰人にとって乗り越えられない苦しみではない。
信仰による苦しみは、神様の愛が共にし、信仰によって打ち勝つことができると
信じているからである。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かなものであっても、救いを受ける私たちには神の力です

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かなものであっても、救いを受ける私たちには神の力です

第一コリント1章18節のみことば

 

神様を信じていない人にとっては、宗教はくだらないもののようにみえるかもしれませんが、クリスチャンにとって、信仰とは『生きるための道』です。この『生きるための道』の道しるべの役割を聖書が担っているのです。

神様を知らない時には、この『生きる道』がなんなのか知りません。

しかし、聖書を開き、みことばが神様のことばであることを信じた時に、神様のみことばの力が心に働きます。

人は死ぬために生きるのではなく、神と共に生きるために、生まれてきたのだと悟るのです。

これが『生きるための道』です。

 

神様を信じていない人にとって、聖書のみことばは人によって書かれたものに過ぎないかもしれません。しかし、神様を信じている人にとって聖書は、神様のことば以外の何ものでもないのです。

 

神様のみことばは真理であり、いのちである。

 

この真理であり、いのちであるみことばを知って信じることによって、死ぬしかなかった人生から救われるのです。

 

 

2新天地イエス教証拠幕屋聖殿新天地教会新天地4

 

 

たとえ、全世界を手に入れても自分自身を失えば何になろう 9章25節

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%95%99%e4%bc%9a1

ルカ9章25~26節

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びてくる時には、そのような人のことを恥とします。

 

自分のいのちを救おうとする者はいのちを失い、イエス様のために自分のいのちを失う者は、それを救う。

当時、弟子たちはイエス様を信じることで殉教の道を歩むしかなかった。いのちを懸けて信仰を守りぬいた人たちがいるから、今の私たちは信仰ができる。

このことも忘れてはならないことだ。

この世の欲にはとらわれず、主のために自分は何をできるのか。

神様の御言葉を誇りに思う信仰を携え、主の栄光の日を迎えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

イエス様を信じていても、告白できなかった人たち

イエス様を信じていても、告白できなかった人たち

 

ヨハネ12章39~43

:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次の様に言ったからである。

:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは彼が目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」

:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさしていったのである。

:42 しかし、それにもかかわらず指導者の中にもイエスを信じるものがたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

:43 彼らは、神からの栄光よりも、人の栄誉を愛したからである。

 

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0129-3

 

 

イエス様が救い主であることを、当時のユダヤ人のみなが信じなかったわけではなかった。

ただ、信じているということができなかったのである。

人の栄誉は、魅力があるが、神様からの栄光には劣る。

ひと時の栄誉のために、永遠の栄光を失った人たちの終わりはむなしい。

 

 

新天地イエス教証拠幕屋聖殿(略:新天地)の大田(テジョン)教会、ポッチュモニ(福袋)で福を分かち合う!

新天地イエス教証拠幕屋聖殿(略:新天地)の大田(テジョン)教会ポクチュモニ(福袋)で分かち合う!

 

大田(テジョン)新天地教会ボランティア団(代表、ジャン・バンシク)は、旧正月え、2324二日間、「伝統文化復興キャンペン」を実施した。

 新天地教会の大田(テジョン)ボランティアは、「伝統文化復興キャンペーン」の一環として、23日午前、西区のヨンムンドン敬老堂(町のお年寄りのための場所)訪れ持って行ったトックク(韓国の正月料理:餅入りスープをお年寄りたちと一緒に食べたり、ユンノリ(韓国の伝統的な遊び)をしたりしながら、しい時間ごした。

 

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0129-5

 

そして24日には、手作りのポッチュモニ福袋)を持って大田(テジョン)教会があるヨンムンドン地域の商店街や貧困家庭訪れ、ポッチュモニ福袋)を配って、「一年間の無事と健康」を祈った

 

 この、キャンペンに参加したボランティア一員、チョソンミさん(40、女性)は、「韓国で伝統文化消えていくのが悲しくて、参加した。ポクチュモニを新年の初日に身に着けると、『一年間、全ての祝福が訪れる』というからわる意味がある。このポッチュモニをったが神様の祝福を受けてほしい。」と明るい表情で話した。

 

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%95%99%e4%bc%9a31

 

ポッチュモニをった商人の一人は、「久しぶりのポクチュモニだ。昔はよくポッチュモニやポッチョリ送りあったり、祝福を祈り合ったりすることが多かった。このように祝福を祈ってくれてありがたく思う。」と話した

 

 

ヨブの悔い改め ヨブ記42章

ヨブの悔い改め ヨブ記42章(新改訳聖書)

 

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0129-3

:1 ヨブは主に答えて言った。

:2 あなたには、すべてができること、あなたは、

   どんな計画も成し遂げられることを、わたしは知りました。

:3 知識がなくて、摂理をおおい隠した者はだれでしょう。

   まことに、わたしは、自分で悟りえないことを告げました。

   自分でも知りえない不思議を。

:4 どうか聞いてください。わたしが申し上げます。

   わたしはあなたにお尋ねします。 私にお示し下さい

:5 わたしはあなたの噂を耳で聞いていました。

   しかし、今、この目で見ました。

:6 それでわたしは、自分をさげすみ、

   ちりと灰の中で悔い改めます。

 

ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかり、神様からも愛されて、7人の息子と、3人の娘、多くの家畜やしもべに恵まれ、この一帯では一番の富豪として幸せに暮らしていました。

しかし、ある時、神様から受難を受け、一日にして、家族、財産を失う大きな苦難を受けるようになります。

普通だったら神様を呪うこともあるかもしれませんが、ヨブはけして罪を犯そうとはせずに、神様にひれ伏し拝みました。

やがては体中に腫瘍ができ、痛みでもがき苦しんでも神様に対し、愚痴を言うことはけしてありませんでした。

わたしを砕き、みてを伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、わたしはなお、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。わたしは、聖なる方の言葉を拒んだことがないからだ。(ヨブ6:9~10)

 

ところが、ヨブは自分が最後まで正しい者であると頑固なまでに意地を張りだしました。なぜ、潔白で罪がないわたしが、神様から苦しめられなければならないのか。ヨブはその理由が分からなかったのです。その思いは、神よりも自分自身を義とする思いになっていきました。(ヨブ32:2)

見かねた3人の友人の内の一人、エリフはヨブ説得します。神様はけして間違ったことをされる方ではない。自分の罪を悔い改めるべきだと悟していきます。

 

聞け。わたしはあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。(ヨブ33:12~13)

 

神は決して、悪を行わない。全能者は公義を曲げない。誰が、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか。もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、全ての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。(ヨブ34:13~15)

 

神は、悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。まことに、神は、あなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広いところに導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる。(ヨブ36:15~16)

 

聖書にはエリフの説得の後に、神様がヨブに答えて仰せられる内容が続きます。(ヨブ38章~41章)

 

知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする者はだれか。非難する者が全能者と争うとするのか。神を責める者は、それを言い立ててみよ。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。あなたは、わたしの裁きを無効にするつもりか。自分の義とするために、私を罪に定めるつもりか。あなたには神のような腕があるのか。

 

エリフの説得と、神様の言葉でやっと目を覚ましたヨブは、悔い改めるようになります。

 

あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、わたしは知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠したものはだれでしょう。まことに、わたしは、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。

わたしは、あなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それでわたしは、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ42:2~3、:6)

 

そうして、ヨブは悔い改めの祈りを捧げると、神様はヨブを元通りにし、所有物もまた2倍に増やされ、さらに祝福を受けながら以前以上に幸せに暮らすようになりました。

 

%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e6%95%99%e8%a8%bc%e6%8b%a0%e5%b9%95%e5%b1%8b%e8%81%96%e6%ae%bf%e6%96%b0%e5%a4%a9%e5%9c%b0%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0129-4

 

神様は、けしてえこひいきをされる方ではなく、どんな人に対しても平等に愛される方です。このヨブの悔い改めの話はけして、ヨブだけに限った話ではないはずです。信仰人である私たちも知らずのうちに傲慢になり、自分の潔白を神様に問いただすことがあるかもしれません。これらを教訓として学び、信仰を成長させる糧にしていきたいです。

 

 

 

 

 

神様のさばきは神の家から始まる

神様のさばきは神の家から始まる

 

しかし、キリスト者として、苦しみを受けるのなら恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりはどうなるのでしょう。

義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

ですから、神の御心に従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

(新改訳聖書 Ⅰペテロ4章16節から19節)

 

キリスト者として歩む道はけして、楽なものではない。ありもしないことで、誹謗を受け、迫害され、それでもなお迫害する者たちの為に祈り、みことばを伝えなければならないからだ。

福音に従わない人、神を敬わない者や罪人がこのまま罪の中でさばきを受けるのを黙ってみることもできず、そういう人たちへ、神様の愛を伝え、真理を伝え、いのちを伝えること

これこそ神様が教えてくださった善ではないか。

今もなお、神様を知らない人に愛を伝えることで、その人が立ち返り、いのちの道を歩むことができるならば、どれだけ神様は喜びになられるだろう。

だからこそ、キリスト者は希望をもって忍耐をすることができるのだと思う。