聖書の預言は誰にも分からない

聖書の預言は誰にも分からない

 

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聖書のみことばには、歴史的な内容、教訓的な内容、そして預言について書かれている内容があります。そのどのみことばも重要で、どれ一つ付け加えたり、除いたりする権利は私たちにはありません。

ですが、どうしても比ゆ的に書かれた部分があり、その点においては人によって解釈も異なり問題も生じてしまいます。

 

では、なぜ問題が生じてしまうのでしょうか?

 

聖書のの預言の部分については、それがげられたに、きであることをじるために、もってわれたのだとヨハネ14:29に記録されていますが、事実、聖書の預言は、げられるまでその御言葉の実体がなんであるのからないといわれました。

 

つまり、預言に関した内容は分からないのが正解なのです。

 

もし、が分かる内容であれば、わざわざ、預言において比喩で書くことも奥義表現されることもないはずでしょう

 

預言はそれが成就したにそれを見てじるためにある

預言真意げられるらない

 

→つまり、成し遂げられる時になって初めて、聖書の預言が分かるということなのです。

 

例えば、旧約聖書はイエス様について預言した書物ですが、イエス様が初臨される前までだれもイエス様のことなど知る人はいませんでした。

旧約イエス様の初臨を約束 → イエス様が来られるまで   その聖書の預言について語れる人  は一人もいなかった。

※旧約聖書がイエス様がメシアであることを証明している

(ヨハネ5:39)

 

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誰も、その預言の意味が分からないので、(誰も分からないことをいいことに)自分勝手な解釈がこの世界に蔓延しているのキリスト教界の今の現状であり、この姿こそ神様の御旨にそぐわないことだと思います。

 

(ちなみに初臨当時も聖書解釈の違いによって、パリサイ派、サドカイ派などの教派があり互いに対立していました)

 

 

今は、聖書のみことばを比喩だけで見る時代ではなく、比喩かれる時代です。

 

なぜならば、実際に新約の預言、ヨハネの黙示録が成し遂げられている中にいるからです。

 

成し遂げられたので、預言の内容が解かれ、人の解釈ではなく、本物の神様の啓示がこの世界に知らされる時がきたのです。

 

もし、その答えが聖書通りならば、聖書を自分に合わせるのではなく、自分が聖書に合わせた信仰をすべきではないでしょうか。

 

 

ああだろう、こうだろう、こういわれている。そういったあいまいな解釈ではなく、聖書の聖句と照らし合わせ、理致的に教える聖書の教えに人々の目は開き悟りが生まれ、何が正しく間違っているのかはっきりと知るわけです。

 

良識のある人ならば、両方の聖書の教えを照らし合わせてみることで、どの主張が正しいのかすぐに分かるはずです。

 

むやみに、異端だ正当だと判断するのではなく、聖書の前で冷静になってみことばに耳を傾け、調べながら真理を見出してくださればと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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