神様が信仰人に望まれていることとは何か?
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア6:6
神様が望まれるのは、高額な捧げものでも、献金でもない。神様ご自信を知ることなのである。
神様から知ることから遠ざかることなく、聖書を親しみ、神様の御心を悟るものになろう。
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア6:6
神様が望まれるのは、高額な捧げものでも、献金でもない。神様ご自信を知ることなのである。
神様から知ることから遠ざかることなく、聖書を親しみ、神様の御心を悟るものになろう。
1:14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。 1:15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。 1:16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 1:17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
どんな義人であっても、神様の中で生きなければ、意味がない。
人は、信仰によって生きてこそ本当の価値があるのだ。
神様のみことばには、国境はない。
この世界、全ての人が福音を信じ、救いに至ることができるように。
わたしに向かって、主よ。主よ。というものがみな天の御国に入るのではありません。
天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。
その日には、大勢の者が、わたしにいうでしょう。
主よ。わたしは、あなたの名によって預言したし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。
わたしはあなたがたを全然、知らない。不法をなすものども。わたしから離れて行け。
「マタイの福音書7章21~23」
イエス様の名によって、預言をしたとしても、悪霊を追い出したとしても、奇跡を起こしたとしても、どんなに、神様を深く信じていようが、神様の御心から離れた信仰をしていては意味がない。
大切なのは、まずは、神様の御心を知ることから始めなければいけないのだ。
自分よがりな信仰をしてもいけないし、聖書の解釈を勝手に変えてもいけない。
その人が天国に行くにも、地獄に行くのも結局は、その信仰の行いによって決まる。
神様を恐れ、地獄を恐れる敬虔なクリスチャンならばこそ、聖書の前に低くなり、己の考えを捨て、神様に従順すべきである。
キリストにあずかる者
あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々を、互いに励まし合いなさい。
もし最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
ヘブル書 3:13-14
第2テモテ1章11~12節 信仰人としての苦しみは苦ではない
わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になったそのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。
第2テモテ 1:11-12
神様の福音を伝えることで、苦しみをうけることもある。
しかし、その苦しみは信仰人にとって乗り越えられない苦しみではない。
信仰による苦しみは、神様の愛が共にし、信仰によって打ち勝つことができると
信じているからである。
というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
第2テモテ 1:7
神様が共にする者は勇気と希望に溢れ、愛を施すことができる。
第一コリント1章18節のみことば
神様を信じていない人にとっては、宗教はくだらないもののようにみえるかもしれませんが、クリスチャンにとって、信仰とは『生きるための道』です。この『生きるための道』の道しるべの役割を聖書が担っているのです。
神様を知らない時には、この『生きる道』がなんなのか知りません。
しかし、聖書を開き、みことばが神様のことばであることを信じた時に、神様のみことばの力が心に働きます。
人は死ぬために生きるのではなく、神と共に生きるために、生まれてきたのだと悟るのです。
これが『生きるための道』です。
神様を信じていない人にとって、聖書のみことばは人によって書かれたものに過ぎないかもしれません。しかし、神様を信じている人にとって聖書は、神様のことば以外の何ものでもないのです。
神様のみことばは真理であり、いのちである。
この真理であり、いのちであるみことばを知って信じることによって、死ぬしかなかった人生から救われるのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
もしだれでも、わたしとわたしのことばを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びてくる時には、そのような人のことを恥とします。
自分のいのちを救おうとする者はいのちを失い、イエス様のために自分のいのちを失う者は、それを救う。
当時、弟子たちはイエス様を信じることで殉教の道を歩むしかなかった。いのちを懸けて信仰を守りぬいた人たちがいるから、今の私たちは信仰ができる。
このことも忘れてはならないことだ。
この世の欲にはとらわれず、主のために自分は何をできるのか。
神様の御言葉を誇りに思う信仰を携え、主の栄光の日を迎えたい。
ヨハネ12章39~43
:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次の様に言ったからである。
:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは彼が目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさしていったのである。
:42 しかし、それにもかかわらず指導者の中にもイエスを信じるものがたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
:43 彼らは、神からの栄光よりも、人の栄誉を愛したからである。
イエス様が救い主であることを、当時のユダヤ人のみなが信じなかったわけではなかった。
ただ、信じているということができなかったのである。
人の栄誉は、魅力があるが、神様からの栄光には劣る。
ひと時の栄誉のために、永遠の栄光を失った人たちの終わりはむなしい。
新天地イエス教証拠幕屋聖殿(略:新天地)の大田(テジョン)教会、ポクチュモニ(福袋)で福を分かち合う!
大田(テジョン)新天地教会ボランティア団(代表、ジャン・バンシク)は、旧正月を迎え、去る23日と24日の二日間、「伝統文化復興キャンペーン」を実施した。
新天地教会の大田(テジョン)ボランティア団は、「伝統文化復興キャンペーン」の一環として、23日午前、西区のヨンムンドンの敬老堂(町のお年寄りのための場所)を訪れ、持って行ったトックク(韓国の正月料理:餅入りスープ)をお年寄りたちと一緒に食べたり、ユンノリ(韓国の伝統的な遊び)をしたりしながら、楽しい時間を過ごした。
そして24日には、手作りのポッチュモニ(福袋)を持って、大田(テジョン)教会があるヨンムンドン地域の商店街や貧困家庭を訪れ、ポッチュモニ(福袋)を配って、「一年間の無事と健康」を祈った。
この日、キャンペーンに参加したボランティア団の一員、チョ・ソンミさん(40、女性)は、「韓国で伝統文化が消えていくのが悲しくて、参加した。ポクチュモニを新年の初日に身に着けると、『一年間、全ての祝福が訪れる』という昔から伝わる意味がある。このポッチュモニを受け取った皆が神様の祝福を受けてほしい。」と明るい表情で話した。
ポッチュモニを受け取った商人の一人は、「久しぶりのポクチュモニだ。昔はよくポッチュモニやポッチョリを送りあったり、祝福を祈り合ったりすることが多かった。このように祝福を祈ってくれてありがたく思う。」と話した。